秀衡塗の起源

平安時代末期、陸奥の国・平泉で100年の栄華を極めた奥州藤原氏。
その最盛期、第3代 藤原秀衡が京より職人を招来し、岩手県特産の漆と金をふんだんに使い、器を造らせたのが起源とされています。

秀衡塗の特徴

秀衡塗は、堅牢な本堅地下地を用い、加飾は「古代秀衡椀」を基本とし製作しています。
菱形と短冊形に切った金箔を源氏雲の上に組み合わせ装飾した紋様は【有職菱紋】とよばれ、隙間には、【子孫繁栄・豊作】の願いを込めた縁起の良い草花が、自由でのびのびとした漆絵で描かれているのが特徴で、素朴ながら華麗な味わいを見せます。

大・中・小の三つ重ねセットが秀衡椀の原型で、椀の形は、胴はふっくら丸みがあり、高台はハの字に堂々と高くつくられている。
冠婚葬祭行事をその家々で行うため来客をもてなす道具として発展。家々により描かれている有職菱紋や草花紋様が異なるのも面白い特徴です。
主に平泉周辺の大農家に伝わる古い椀を、地元の人々が愛着を込め【秀衡椀】とよんでいました。
最古の古代秀衡椀は、16世紀安土桃山時代の品が数十種類、現存し伝わっています。

秀衡塗の歴史

秀衡塗は、平安時代末期に平泉で栄えた奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡が京より職人を招来し、平泉地域特産の漆と金をふんだんに使い、器を造らせたのが起源とされています。
世界遺産にも指定されている平安時代の建造物「中尊寺金色堂」の内陣部分には、漆・金箔・金銀蒔絵・螺鈿(らでん)などの多彩な漆芸技術が用いられております。
また伽羅之御所や柳之御所からは、12世紀の漆芸品(漆皿・蒔絵箱など)・刷毛・ヘラ・漉し紙等も発掘されており、平安時代の平泉には高度な漆芸技術を有していたことがわかっています。

主に「秀衡椀(古代秀衡碗)」と地元の人々に呼ばれ、平泉の近隣地域の大農家に伝わっていきます。
現存する最古の秀衡椀は16世紀安土桃山時代の品が見つかっており、江戸時代までの品が現存しています。
明治・大正時代にはいると、地場産業として漆器生産が発展し、「増澤漆器」と呼ばれる加飾のない無地の椀やお膳が製造・販売の主流となりました。
その影響により、秀衡椀の装飾技術が途絶えてしまいます。

現存する古代秀衡碗(安土桃山時代)
翁知屋2代目 佐々木誠

昭和11年、翁知屋2代目・佐々木誠が【金箔はり技術】を独自の工夫で開発し、古代秀衡椀を見事に再現・復活させ、日本橋・高島屋で発表し好評を得ました。 その展示を見た民芸運動家・柳宗悦は感動し、翌年研究者一団で旧衣川村増澤地区を訪れました。
素朴だが華やかさのある秀衡椀は、多くメディアに取り上げられ、日本民芸館などにも展示されました。
その後、地場産業として発展していた「増澤漆器」と合わせて、「秀衡塗漆器」も同時に製作するようになりました。

秀衡塗の作業工程(English)